福岡における消防の始まりは福岡市がまだ福岡藩と呼ばれていた時代、
火防組織として夜回り組や火を扱う職人(鋳物業者などが担当していたのではないか言われている)が
火災の予防や消火を担当したとされています。
明治になると組織が改められ第1番組福岡部・第2番組博多部の2つの公設消防(消防署の前身)と
地域の民設消防組織(消防分団の前身)が作られ組織的な消防活動を開始しました。
昭和に入り第1・第2番組はそれぞれ福岡市消防組・福岡市西部消防組と名称を変えて活動を行いました、
太平洋戦争が始まると消防組と共に活動していた民設消防組織は防護団となり
消防組と共に各地域で救護や空襲の目標にされないように灯火管制(灯りを外に漏らさないようにする事)での
防火活動を担っていました。
戦争が激しくなると消防組・防護団の活動を統一した警防団となり戦時中での消防活動を続けていきました。
終戦後、警防団は新たに消防団として生まれ変わり
福岡市消防団・福岡市東部消防団・福岡市西部消防団・福岡市博多港消防団の4つの消防団が設立され活動を開始
そして福岡市の成長に伴って発展していく地域により密接な活動ができるように再編成を行い
東消防団(9分団)・博多消防団(14分団)・中央消防団(7分団)・南消防団(6分団)・早良消防団(8分団)・
西消防団(9分団)・水上消防団(11分団)の7団(64分団)に増え現在の体制となっています。
参考 三宅・三宅東消防史
三宅東分団は、昭和61年に福岡市内の消防団が管轄する地域を見直す際に
三宅分団から分離する形で設立され、清水・塩原・向野・大橋・南大橋の全域と
筑紫丘・玉川町・三宅の一部を管轄しています。